私は2026年4月9日から12日まで、大学の時の友人を訪ねて八丈島に行ってきました。


八丈島というと、黄八丈の織物とか、小説「ライオンのおやつ」の舞台になった場所というぐらいしか知識が無かった私ですが、 


八丈島は、江戸時代の流刑地でした!

さらに!!

この流人たちが自分の能力を開花させて豊かな文化を創っていった場所だったのです。


宇喜多秀家(うきた ひでいえ)


八丈島に島流しにされた流民第一号は、宇喜多秀家です。


豊臣秀吉の家臣として徳川家康や前田利家などとともに五大老の一人だった秀家。


秀吉の死後、この五大老が政権争いをすることになります。


それが関ヶ原の戦い。


敗れた側の秀家は一目散に南へ逃げて鹿児島までたどり着きますが、捕まって八丈島へ流されることに。


こんな大物が、島流しされて生きていけるの?と思いますが、彼の生命力はすごい!


島の人たちに優しくされて、刀を鍬に持ち替えて懸命に生き、なんと亡くなったのは84歳。


妻の豪姫は、八丈島に行くことは許されなかったけれど、一年おきにお米や物資を送っていたそうです。


その送られたものを秀家は島の人たちにも分け与えていたので、島の人たちも外から入って来るものを楽しむことができたんでしょうね。


丹宗庄右衛門(たんそう しょうえもん)


八丈島では、焼酎造りが盛んです。


コロナ前は8件ぐらいの酒蔵があったようです。


人口7000人の島に酒蔵8件!!


現在は4件ぐらいに減ってしまったようですが、それでもすごいです。


この焼酎の作り方を伝授したのも、八丈島に島流しにされた人だったのです。


八丈島に焼酎の作り方を教えたのは、薩摩の商人だった丹宗庄右衛門です。


貿易が制限されていた時代、庄右衛門は琉球を介した清との貿易を密告されて、罪に問われてしまいます。


八丈島では、お米が貴重で酒造りが禁止されていました。


そこで、薩摩から来た庄右衛門は、故郷でも飲まれていた「芋焼酎」を島で開発。


島ではすぐに焼酎文化が根付き、今でも貴重な産業になっています。


近藤富蔵


こうした島の歴史を書き残したのも、島流しされた流人です。


近所との土地争いで殺人を犯してしまった富蔵は島流しに。


53年の島での生活の間に、40巻にも及ぶ『八丈実記』を執筆。


これは、「八丈島の百科事典」とも言われる貴重な資料です。


玉石垣


八丈島は風が強くて、台風の前触れかと思ったら「これ毎日だよ」と言われました。


そんな風から暮らしを守る玉石垣。


これも流人が石を運んだそうです。


島の発展を支えたのは?


流罪が作られた江戸時代。


八丈島に流された人はおよそ1800人と言われます。


船で本土から運ばれる間は、絶望的だったかもしれない流人。


でも、島での暮らしはそんなに悪いものではなかった。


やがて島で家族を作り、島を愛するようになった人たちが、島の発展に寄与していたのです。


外の人を受け入れる八丈島の人の懐の深さが、この島の文化を創っていったと言えます。