先週、3泊4日で大学の時の友人を訪ねて八丈島に行ってきました。


八丈島というと、黄八丈の織物とか、小説「ライオンのおやつ」の舞台になった場所というぐらいしか知らなかった私ですが、 


八丈島は、江戸時代の流刑地でした!


さらに!!


この流人たちが自分の能力を開花させて豊かな文化や産業を創っていった場所だったのです。


宇喜多秀家(うきた ひでいえ)


八丈島に島流しにされた流民第一号は、宇喜多秀家です。


豊臣秀吉の時代、徳川家康や前田利家などとともに五大老の一人だった秀家。


秀吉の死後、この五大老が政権争いをすることになったのが、関ヶ原の戦いです。


そこで敗れた側の秀家は八丈島へ流されることに。


こんな大物が、島流しされて生きていけるの?と思いますが、彼の生命力はすごい!


刀を鍬に持ち替えて懸命に生き、なんと亡くなったのは84歳。


妻の豪姫は、八丈島に行くことは許されなかったけれど、一年おきにお米や物資を送っていたそうです。



そんな本土からの贈り物を秀家は島の人たちにも分け与えていたそうです。


流人第一号の、この人となりが、島の人たちの「流人」のイメージを作っていったんだと思います。


丹宗庄右衛門(たんそう しょうえもん)


八丈島では、焼酎造りが盛んです。


コロナ前は8件ぐらいの酒蔵があったようです。


人口7000人の島に酒蔵8件!!


この焼酎の作り方を伝授したのは、薩摩の商人だった丹宗庄右衛門。


密貿易の罪で流された彼は、米が貴重だった島で芋焼酎を広めました。


島ではすぐに焼酎文化が根付き、今でも貴重な産業になっています。



近藤富蔵(こんどう とみぞう)


島の歴史を書き残したのも、流人でした。


近所との土地争いで殺人を犯してしまった富蔵は島流しに。


53年の島での生活の間に、40巻にも及ぶ『八丈実記』を執筆。


この書物は、八丈島の百科事典とも呼ばれ、さまざまな小説の原案にもなっています。


玉石垣


八丈島は風が強くて、台風の前触れかと思ったら「これ毎日だよ」と言われました。


そんな風から暮らしを守る玉石垣。


これも流人が石を運んだそうです。




島の発展を支えたのは?


江戸時代、八丈島に流された人はおよそ1,800人と言われます。


彼らは島の人々と結婚し、生活の中に溶け込んでいきました。


本来、流刑とは「社会から排除する仕組み」のはず。


それなのに八丈島では、

  • 文化が生まれ
  • 産業が育ち
  • 記録が残された

つまり、

“外から来た人”が、地域を豊かにしているのです。


どうしてそんなことができたのか。


それは、この島の懐の深さかなと思います。


道路を渡ろうとするとすぐに車が止まってくれます。


友達と写真を撮っていたら、「写真撮りましょうか?」と軽トラが止まってくれました。


朝、お寺を散歩をしていると、「ラジオ体操やっていきませんか?」と声を掛けられ、参加させてもらいました。


そのあとは、お寺の鐘つきもさせてもらいました。


「ここで住んだら、知っている人がいなくても何とかなりそうだ」と思えました。


多分、江戸時代に島に流されてきた人たちも、島の人たちの温かさに触れて、ここで暮らしていく覚悟を持ったんじゃないかと思います。


否定したり島の流儀を押し付けるのではなく、外の人を歓迎する気持ちが、八丈島の歴史を作ってきたんだと感じました。