石川理紀之助とは ~「種苗交換会」は秋田県特有のイベント?!~
今年11月、秋田県ではいつものように「種苗交換会」が開催されました。
来場者は71万人。いつもどおり大盛況でした。
種苗交換会とは
「種苗交換会」はその名の通り、元々は手作りの作物や種子を持ち寄りお互いに見せ合って、交換することを目的としたもの。
でも、今では一般の人にも人気のお祭り的イベントで県民に広く愛されています。
農業のイベントとしては、日本最大級と言えるでしょう。
何といっても5日間も開催されますし、農機のモーターショーもあります!
これが、秋田県特有のものだと知ったのは、つい最近の飲み会の場。
「えっ!種苗交換会って、他では開催されていないの??」
「農業フェア的なものは開催されているけど、『種苗交換会』というのは秋田特有らしいよ」
また知らなかったことを知りました。
その種苗交換会、今年146回目です。
年一回開催されて今年が146回目ということは、明治11年から開催されている!!
西南戦争の翌年です!
それも、太平洋戦争があっても、コロナがあっても毎年休まずに開催されているらしいで
す。
すごくないですか?
秋田県の種苗交換会に対する情熱はどこから?
その答えが、今年の種苗交換会にありました。
この種苗交換会、県内持ち回りで開催されていますが、今年は潟上市。
今年のテーマは
「潟上から 聖農の思い 未来へつなげ」
でした。
聖農?
誰ですか?
これが、
石川 理紀之助(いしかわ りきのすけ)
と言う人だったのです。
石川理紀之助とは
今年の種苗交換会ではこの人の銅像までできて、除幕式がありました。
今でこそ、秋田と言えば「米どころ」というイメージがありますが、当時はコメが取れず、農家は、とても貧しくて借金だらけだったようです。
理紀之助は21歳の時に、山田村の地主の石川家に婿入りします。
当時、石川家も借金だらけだったようです。
最初は理紀之助も、実家から米を持ってきて小作人に貸して利子を取れば借金が返せると考えたようです。
でも、そんなことをしていたら、農地は荒れて、生産力は低下し、人の心も荒廃してしまうと気が付きます。
米を貸してお金を取るより、農業の生産力を高めることの方が合理的だとわかり、これを実践しました。
当時は村の地主が小作人からの取り立ての規則を作ったようです。
理紀之助が作った規則はこんな感じ。
- 今年の収穫量の平均値を決める。(例えば10俵とします。)
- そこから翌年の種になる分と小作人が食べる分を小作人の取り分と仮定する。(例えば6俵とします。)
- その残りを取り立て分と決める。(10俵‐6俵=4俵)
なので、4俵取り立てられると決まりますので、残りは全部自分のものです。
12俵取れたら4俵は取り立ての分、8俵は小作人の分です。
10俵取れなかった人にはお金を貸してちゃんと農業を続けていけるようにしたそうです。
理紀之助の農業指導
婿に入った家の借金を返さないといけない。
それには、小作の人たちがたくさん米が作れるようにしないといけない。
と言うわけで、理紀之助は農業指導に励みます。
当時、刈り取った稲は束ねて逆さに地べたに置きっぱなし。
そのまま腐ってしまうことも。
- 稲をしっかり乾燥させる
- いい種を普及させる
- 正しい肥料の量や与える時期を守る
などを指導して、山田村では農業が盛んになりました。
その事例を秋田県内全域に広め、秋田県では農業が盛んになっていきました。
理紀之助は全国の農業団体から呼ばれて講演するようになったそうです。
理紀之助が大事にしたこと
理紀之助は毎朝3時に起きて農業に励んでいたそうです。
彼は、農業での経験や知識の情報交換をとても大事にしていました。
農業に従事している人たちの会合を催したり、情報を印刷して配布したりして農業従事者全員で豊かになることを目指しました。
種苗交換会もその一つです。
石川理紀之助は、種苗交換会の生みの親だったのです。
何があっても種苗交換会を続ける訳は、何があっても理紀之助の想いをつなげていこうという情熱だったのでした。
理紀之助が生まれた生家の近くには、金足農業高校が建てられています。
「自ら積極的に事を為し、労をいとわずに勤めを果たし、万物に感謝の念を抱く」
という理紀之助の言葉は金足農業高校の「自主」「勤労」「感謝」の信条になって受け継がれています。
パンフレットにある「寝ていて人を起こすことなかれ」も、理紀之助の「経済14か条」の中の言葉です。
「自分が寝ながら、他人に『起きろよ』と言っても誰も起きない」ということですね。
金足農業の高校生をはじめ、秋田県の農業人には石川理紀之助の精神が根付いてたのです。