後藤新平に学ぶ ~人を残すことが最高の価値~
東北大震災や、COVIT-19の蔓延など、日本の危機に必ず名前が出てくる後藤新平。
今回は、この後藤新平を取り上げてみました。
後藤新平とは?
後藤新平は、明治から昭和にかけて医学や政治で日本を危機から救ってきた人です。
今でも、さまざまな政策にヒントを与えています。
1857年、現在の岩手県奥州市に生まれた後藤新平は、最初は医者として活躍していたそうです。
昔、お札にもなっていた板垣退助が暴漢に刺されて「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだあと、彼を診察したのも後藤だったとか。
COVIT-19で後藤新平が注目されたわけ
その後内務省衛生局に転職した時に、日清戦争から兵士が帰還します。
1895年当時、中国はコレラが蔓延。
その中国から23万人の兵士が戻ってくる!
この23万人の検疫のために大規模な検疫所を作り、3か月で全員の検疫を終わらせました。
当時は、病気に対する知識も今のようなものではなく、検疫を実施すること自体にもかなり反発があったようです。
その中でこの大規模な検疫を成し遂げたのはすごいですね。
おかげで日本にコレラが蔓延することは無かったようです。ほっ。
この後藤新平の水際対策は、COVIT-19の蔓延を防ぐための政策にも生かされました。
喫煙者を減らす方法にも影響を?
その後彼は、日清戦争で日本の領土となった台湾の民生長官となり、農業の振興や阿片の撲滅など、台湾の発展に尽力します。
阿片を撲滅する時も、すぐに禁止するのではなく、税金を高くして購入を難しくしていったとか。
これって、今の喫煙者を減らすための方法と似ています。
台湾の文化を尊重し、彼らにふさわしい台湾のかたちを考えたことで、今でも「台湾近代化の父」と言われています。
私は台湾の友達から、この話を聴きました。
彼女から聞くまで後藤新平を知らなかったので、恥ずかしかったのですが、台湾の人達にそんなに尊敬されている日本人がいるなんて、嬉しかったです。
都市構想で残した事業
1914年、後藤新平は鉄道院の総裁でした。
戦後空襲で焼け野原になっていたところに、あんな素晴らしい東京駅ができたら、みんなびっくりですよね。
彼は、人口増加や戦後の復興など当時の日本の状況に対する大きな役割を「東京」に担わせようと考えていたと思います。
その後東京市長になった彼の都市構想は、石原元都知事や小池百合子都知事にとても大きな影響を与えています。
東北大震災で後藤新平が注目されたわけ
今から100年前の1923年、関東大震災が起こります。
当時彼は、内務省の大臣。
震災があった次の日の夜から「帝都復興根本策」を書き始めたそうです。
彼が東京の都市計画に申請した予算は30億円。当時の国家予算1年分です!
いろいろな反対を押しのけて、なんとか10億円の予算をつけることができ、東京の大復興を成し遂げました。
公園や広い道路など、今の東京の骨格を作った大工事でした。
医学と政治
石原元都知事が、「後藤新平がすごいのは医学の知識があって政治をやったからだ」と言っていました。
「臨床」「診断」「疫学」という医学の考え方を政治に取り入れていたのでは?
と言う話。
「診断」は「調査・分析」
「疫学」は「予防」ですから、人々の暮らしを災害などから守るための予防策ですね。
なるほど。
現場を熟知し、外からの情報を取り入れて冷静に判断し、将来を見据えて人が住みやすい場所を作るということか。ふむふむ。
事実、関東大震災が起こった時も、東京駅はほとんど被害なく、その機能が止まることはありませんでした。
人を残す
このように、さまざまな事業を成し遂げてきた後藤新平ですが、
- 金残すは下
- 事業残すは中
- 人残すは上
という言葉を残しています。
人を育てることが最高の価値だということですね。
彼は常に、
「一に人、二に人、三に人」
と言っていたそうです。
名言の続き
彼の言葉は、ここから続きがあります。
「されど、金なくして事業成りがたく、事業無くして人育ちがたし」
最終的な目的は、人を育てること。
そのために事業があり、金も必要。
ということですね。
経営資源として、よく言われる「ヒト・モノ・カネ」ですが、最終的には人を育てるための資源なんですね。