大館市内のカフェで「つけ麺一つお願いします!」なんて厨房に声をかけて、お盆を手に笑顔でお客様をお迎えしているこの人は???


なんと!


日経ウーマンの元編集長で、本もたくさん書かれていて、たくさんの講演で全国を走り回っていた麓幸子さん???


麓幸子さんとは


大館市出身の麓さんは、「日経ビジネス」や「日経トレンディ」「日経WOMAN」などを出版している日経BP社で編集長や執行役員をされる一方、有識者としても様々な肩書をお持ちで 大学でも教えていらっしゃいました。


そんなすごいキャリアを積んでたら、結婚する暇ないよねー、と思いきや


なんと!


23歳の若さでご結婚、26歳で長男を、29歳で長女を出産されてます。


「そうなんだ。じゃあ、旦那様が主夫?」と思いきや


なんと!


旦那様はテレビ朝日の番組ディレクターとして活躍された田中伸夫さん。


「ニュースステーション」や「スーパーモーニング」などで長年ディレクターを務められ、ザ・スクープスペシャル 「告発!警察の裏金疑惑」では、文化的に質の高い放送に贈られるギャラクシー大賞を受賞するほどの凄腕ディレクターだったのです


「旦那様も忙しいの?じゃあご両親が近くにいたとか?」と思いきや


麓さんも秋田出身、田中さんも岩手出身で、子育てを親に頼める状況にはありませんでした。


そんな状況で、お子さん2人を育てながら一体どうやってそのキャリアを積んでたの??と思ってしまいます。


1985年とは


麓さんが入社した当時、日本では同じ仕事でも、「女性基本給 16万円」「男性基本給 18万円」みたいに、性別だけで給料が分けられていました。



「そのころはバブルで日本はお祭り騒ぎだったんでしょう?」と言われますが、


国連の「女子差別撤廃条約」というのには従っていなかったのです。


いくら車やゲームが世界中で売れて「MADE IN JAPAN」を自慢しても、そんなんじゃ、先進国って言えないんじゃない?


という外国からの声や日本国内からの批判があり、1985年にいよいよ日本も「女子差別撤廃条約」を批准。「男女雇用機会均等法」という法律もできました。


麓さんが就職した翌年のことです。


でも、法律はできましたが、今までの女性に対するイメージが当たり前に浸透しすぎていて、何が差別かわからない状態が続きます。


女性の採用条件にだけ「自宅通勤以外の女性は応募不可」と堂々と書いてある大手の会社が普通にゴロゴロあったことも、思い出されます。


地方出身でアパート暮らしだと女性は東京で働きたくても物理的に選択肢が限られたり、基本給が男性と違ったりする状況は続き、まったく「男女雇用機会均等」じゃなかったのです。



仕事に熱中


そんな中、麓さんは、当時から女性の生き方などを取り上げる雑誌を作っていた日経BP社で、子育てをしながら雑誌記者という仕事に熱中します。


取材で訪れた女性のお話を聞きながら記事を書き、自分自身も家庭を持って2人の子供を育てながら、会社という場所で力を発揮し、社会に貢献する苦労と楽しさを実感する日々です。




まだ女性の社会進出のための制度も、人の意識も整っていなかった時代、女性は結婚したら仕事を辞めるという選択をする人が大部分でした。


男性と同じように、出世して会社の要職に就くなんていうのは、人生の選択肢に入っていない女性のほうが多かったのです。


女性自身が望まないのだから、女性の社会進出のための制度も整わないし、会社側の意識も変わらない、だから女性は要職につけない・・みたいなスパイラルがあったと思います。


月刊誌の記事を書く記者の仕事から、クライアントから発注を受けて媒体を制作する企画出版の仕事も経験し、44歳で日経ウーマンの編集長となった麓さん。


会社での役割も、人を管理する側にシフトしていきました。


社会を変えたい


雑誌を通じて働く女性をサポートするだけでなく、女性が自分の能力を発揮して働ける社会づくりのために貢献したいという気持ちが強くなった麓さんは、50歳で夜間の大学院に通い始めます。


専攻したのは「キャリアデザイン学」


人間が社会的にキャリアを積んでいくことを、国の政策はどうやって支えていくべきなのか、会社などの組織は社員のキャリア形成にどうかかわっていくべきなのかなどを研究する学問です。



それまでずっと仕事で経験きたことを、学問として見つめなおし、体系化することで、男女共同参画社会やジェンダー平等 の実現をリードする専門家となりました。


日本という国が、女性にどうやって活躍してもらうかを模索しているとき、家庭も持ちながら女性エグゼクティブ として活躍する麓さんの生き方そのものにもスポットがあてられます。


様々な場所で発言して、日本の国への意識づけをする機会を得たのです。


本の執筆活動も多くなり、セミナーなどもひっぱりだこに。


そんなとき、57歳で長年勤めた日経BP社を退職して秋田にUターン、


いったい何があったの?


続きは来週のお楽しみです。