大豆だけでも体にいいのに、それが発酵食品になっている、それも、お醤油やお味噌と違って塩分を気にする必要もない。

血液サラサラのナットウキナーゼ、免疫力アップのポリアミン、必須脂肪酸のオメガ3とオメガ6、納豆って、天才ですね。


秋田の名産品を羅列して唄にしている「秋田音頭」にも、もちろん納豆が登場します。


納豆って、水戸でしょう?秋田とのかかわりは?と思いますよね。

納豆の歴史


納豆の発祥には諸説ありますが、よく言われるのは、平安時代の「後三年の合戦(ごさんねんのかっせん)」の時に、偶然できたというものです。*納豆の歴史


北東北を支配していた清原(きよはら)氏の兄弟争いに、平安京の東北担当だった源義家(みなもとのよしいえ)が加担したのが「後三年の合戦」。


合戦の時、ゆでた大豆を藁(わら)に包んで携帯していたら納豆になっていたとか。


それが意外にイケるということで、秋田では、平安時代から納豆が食べられるようになったということです。


ヤマダフーズとは


そんな納豆が生まれた後三年の合戦の戦地である「金沢の柵」の近くで創業し、のちに水戸納豆で有名な茨城に工場を作った会社があります。それが、ヤマダフーズです。


「ヤマダフーズ?納豆好きだけど食べたことないかも」っていう人も、多分食べてます。コンビニや回転すしの納豆巻きで。


秋田市へ進出


昭和29年当時、秋田県だけでもすでに21社の納豆製造所がありました。そんな中、現社長の祖父の山田清助氏が、22社目として創業を果たします。


もちろん、すでに近くのお店の棚は、古くからあるメーカーの納豆が占領していて、新参者の入るスキはありません。




それならばと、当時専務だった山田清繁氏(のちの2代目社長)は、秋田市中央卸市場に営業を仕掛けます。


当時、納豆は「家で作って食べるもの」から「お店で買って食べるもの」に変わりつつあり、納豆づくりが得意な人が、家業として営むようになってきた時代です。


作った納豆を、なじみのお店においてもらうのが普通でしたが、清助氏の納豆製造所のある横手市金沢町(現在は仙北郡三郷町)から中央卸売市場のある秋田市までの距離は60Km 以上。


こんなところで、どこの馬の骨ともわからない納豆を、いくら地元より市場規模が大きい秋田市とはいっても、売ってくれるスキがあるの?と思います。


しかし、何度門前払いを繰り返されてもめげずに営業を続けていると、


偶然にも、そこで働いていた同郷出身者との出会いがありました。


その人が同郷のよしみで、野菜などの青果物と一緒に納豆を売ってくれたのだそうです。


競争しない場所をめざす


創業当時、すでにあった21社の納豆製造所は、地元でいつも買ってくれるお得意さんを確保しようという、安定した経営を目指していました。


この21社と同じように「自社の地元で安定経営」を目指したら、すでに棚に並んでいるほかのメーカーの納豆を蹴落として、自分の納豆のスペースを作らなければなりません。21社すべてがライバルです。


でも、目指しているものが違えば、ライバルとはなりません。


グーグルの共同創業者であるラリー・ペイジ氏は、

「そんな馬鹿なことはできないと誰もが思うなら、競争相手はほとんどいない」

と言っています。


「作った納豆を、地元で売らないで無名のまま秋田市の中央卸売市場に持っていって売る?そんな馬鹿なことはできない

と誰もが思ったので、競争相手はほとんどいない状況になったわけです。




企業の「競争戦略」とは、「どうやって競争に勝つか」ではなく、「どうやって競争を避けるか」にほかなりません。


ほかの会社に「それはできない」と思わせること、ほかの会社が「それはできない」と思うことをやることで、競争が避けられるポジションを獲得できます。


そして、ライバルとの競争に余計なエネルギーを使わなくて済み、その分のエネルギーを技術力を高めたりすることに使えるのです。


現に、ヤマダフーズの後に創業した1社を含め、23社のうち生き残っている県内の納豆製造業者は5~6社。その中でも全国シェアが5本の指に入るのはヤマダフーズだけです。


売り上げを伸ばそうとするとき、地元でしっかりと基盤を作り、まずはその地域で10%のシェアをとる、それができたら、少し範囲を広げ、そこでも10%のシェアを獲得、というように、徐々に販路を拡大していくという戦略をとるのが定石ともいわれます。


その定石に縛られず、ひしめき合っている地元の納豆シェア獲得の競争に参入するのではなく、競争しない場所を目指した。


その決断が、今のヤマダフーズを作ったといえます。


関東へ進出


この決断は、その後の関東進出にも生きてきます。


米どころ秋田では、冬になると農閑期。一家の大黒柱は季節労働者として東京に行っていました。


「出稼ぎ(でかせぎ)」と言われるものです。


昭和49年には、秋田の出稼ぎ人口は6万人弱。


働き盛りのお父さんたちが冬になると関東地方に移動するので、冬は、納豆の消費量も減少する季節でした。




それならばと、当時2代目社長として営業をしていた清繁氏はボストンバックに納豆を詰めて東京行きの夜行列車に乗ります。


東京でも、門前払いを繰り返されながら、ここでもまた!同郷のよしみで納豆を仕入れてくださる経営者の方と出会い、関東に活路を見出していったそうです。




中にいると、同郷の関係者はほぼライバル。


でもいったん外に出ると、同郷というだけで、味方になったり応援してくれたり。


地方を出たことで、逆に地方の強みを生かせたのです。


業務用納豆へ進出


そして、秋田出身の強みで、ヤマダフーズはもう一つの「競争しない場所」を獲得することができました。


それが、業務用納豆です。


納豆巻きの納豆って、よく見ると、丸い豆の形のままではなく、小さく砕かれています。



そのほうが口の中で、お米の粒と自然に混ざり合っておいしいお寿司となります。


この小さく砕かれた納豆を、「ひきわり納豆」と言って、秋田では昔から納豆と言えばひきわりでした。


これは、秋田で昔からみそ、しょうゆ、納豆、豆腐などを作るために育てていた大豆が、粒の大きい品種だったからです。


圧力釜のなかった時代、大きな大豆を軟らかく煮るには、時間がかかり、沢山の薪が必要でした。


そこで、早く煮えるように、「鍋で炒ってから砕いたひきわり大豆」を使っていたので、納豆はひきわりが普通だったのです。


大豆の選定から納豆のパッキングまで、すべて自社で一貫生産しているヤマダフーズは、おいしいひきわり納豆を量産できるよう、ひきわりに適した大豆や、砕くための設備、独自の納豆菌や発酵技術などを長年研究していました。


ねばねばする納豆をわざわざ包丁でたたいて細かくして納豆巻きを作っていたすし職人さんに、すぐにご飯に巻ける状態のひきわり納豆を提供できたわけです。


この強みを生かして、業務用納豆の分野では全国シェアの6割を獲得、トップを走り続けています。