バブル崩壊、リーマンショック、そしてコロナ禍など、企業を取り巻く経営の危機、乗り越えられる企業と、そうでない企業はどこが違うのでしょう?

今回はビジネスモデルの転換で危機を乗り越えた斉藤光学製作所の事例をお伝えします。

斉藤光学製作所について

斉藤光学製作所は、1972年に「斉藤光学」として埼玉県で産まれた会社です。今は、秋田の会社として半導体の素材となる鉱物の結晶などの研磨を行っています。


創業当時、シチズンが世界で初めて「時報合わせ装置付き電子時計」を作るなど、日本の技術が腕時計業界をリードしていました。

斉藤光学は、ガラスを同じ厚みで削り、表面が滑らかで平らになるように磨く技術を使って腕時計のカバーガラスを作っていたそうです。


設立から5年後には法人化を果たし、「株式会社斉藤光学製作所」となります。

1985年には誘致工場として秋田工場が完成します。ここから秋田とのつながりが始まります。


そしてバブル崩壊後の間もない1994年、創業者である父親から現在の齋藤社長が会社を引き継ぎました。


その翌年、なんと秋田工場は火災に遭い、工場の2/3が焼失してしまったそうです。せっかく取りそろえた設備も失いました。

マイナスからの再スタートを強いられた齋藤社長は、会社の方向性を見直すことを考えました。

価格競争からの離脱

円高の到来

このころ、世界の情勢はどうなっていたのでしょうか?

1985年のプラザ合意で、アメリカは貿易赤字の解消のためにドルの価値を下落させます。

それまで1ドルは240円ぐらいで落ち着いていたのが、一気に100円にも迫る勢いで円が高くなりました。

このことが、日本の製造業に大きな打撃を与えます。

1ドル200円だったのが、1ドル100円になると、日本で200円の商品は、今まで海外で1ドルで売ることができたのに、2ドルで売らなければ採算が取れなくなります。

それまでと同じ1ドルで売ろうとすると、200円で作っていた商品を、100円で作らなければならなくなります。工場はメーカーから買いたたかれるようになってしまいました。

製品の価格を抑えるために、メーカーは人件費の安い中国に、工場を作るようになりました。

腕時計のカバーガラスも、ほかの製品のように買いたたかれ、中国製と価格競争が始まりました。

このままでは会社が立ちいかなくなると考えた齋藤社長は、価格で勝負する世界を抜け出して付加価値の高い製品を作る企業にシフトしていくことを思い描き、半導体用の材料を研磨する勉強を始めたのです。

半導体とは

半導体は、電子を何の抵抗もなく通す銅などの「導体」と、まったく通さないゴムなどの「絶縁体」の間にあって、熱などの条件を変えることで電子を通したり通さなかったりコントロールできる物質です。

この半導体の基盤に電子の通りを制御したりする部品を取り付けたのが集積回路(IC)で、スマホやパソコンなど、世の中の便利なものには100%半導体が使われています。


用途によって、さまざまな物質が選ばれますが、その結晶の硬さや形状はバラバラなので、研磨には高度な技術と豊富な知識が必要です。


机の上ではじき出された半導体基板の数値は、表面に傷一つなく滑らかなものという前提での数値。

半導体用の結晶の研磨は、その理想の数値を、現実の物体で実現しなければならない精密な世界です。


斉藤光学製作所は、ガラス、サファイヤや石英など、様々な結晶を磨く技術を獲得して、世の中に提供していきました。

ビジネスモデルの転換

それまでほぼ100%、「注文を受けて製品を作り納品する」、という体制をとってきた斉藤光学製作所は、2009年にビジネスモデルの転換を図ります。


製品だけではなく、ノウハウを売ることを決意したのです。


それまでの注文通りに材料を加工して販売する「製造業」から、半導体基板の設計段階から加工後の評価分析そして加工機械の販売まで、トータルにサポートする「研究開発型企業」になりました。

研究開発型企業のメリット

この選択で大きく3つのメリットが生まれます。

1.ダメージの分散

一つの事業に大きく依存していると、その事業がコケたときに大きなダメージを受けますが、事業を増やして一つの事業への依存度を小さくすることで、ダメージも分散できます。

2.顧客層の拡大

部品製造だけだと、世の中の景気が悪くなったり注文してくれるメーカーの経営が悪化したりすると、たちまち影響を受けます。

研究事業を行うことで、顧客層がメーカーだけでなく自治体や大学などに広がり、外部環境の変化に強い企業に生まれ変わりました。

3.ライバル企業との差別化

もともと、腕時計のカバーガラスからの転換で高い技術を持って付加価値の高い製品を作っていたのですが、研究開発型企業となったことで、斉藤光学製作所にしかできないサービスを生み出し、他のライバル企業からの差別化ができました。

リーマンショック到来

そうして事業を拡大し、秋田工場の新社屋も完成した翌年、リーマンショックで世界中が金融危機に。


この頃の日経平均は6,000円台、上野には年越し派遣村ができてたくさんの失業者が並んでいたことが思い出されます。


斉藤光学製作所も注文が激減します。当時は今回のコロナ対策のような政府の助成金なども無く、大変だったといいます。

もし、齋藤社長が研磨加工生産だけをやっていたら、いくら営業を頑張ろうとしても営業先がない状態だったと思いますが、研究開発型企業となっていたことで、この危機を乗り越えられました。

オープンイノベーション

また、斉藤工学研究所は、会社を開放して研究設備として他の企業や団体に使ってもらい、持っている技術もオープンにしています。


「せっかく蓄積してきた技術がもったいなくないですか?」と聞くと、「技術はすぐ陳腐化するんですよ。技術の維持管理にもコストがかかるし。」という答えがさらっと返ってきました。


技術の蓄積を出し惜しみするのではなく、企業で持っている技術やアイディアを、外の企業や団体が持っている技術やアイディアと合わせることで、新しい価値を創造しているわけです。



これには、大きなメリットがあります。

  • 同じような価値を、企業内部だけで作ろうと思うとかなりの時間とコストが必要です。外部と共同で作ることで時間もコストも削減。スピードが大事な半導体業界ではとても大切なことです。
  • また、ほかの企業や団体と一緒に開発することで、組織も活性化します。

まとめ

  • 斎藤光学製作所は、腕時計のカバーガラスの研磨加工から、半導体用の材料素材の研磨加工への転換で、価格競争からの離脱ができました。
  • そして、研究開発型企業への転換で、景気に左右されにくい技術集団としての地位を確立できました。
  • さらに、オープンイノベーションによって、時代のニーズにあった技術をスピード感をもって獲得していく企業になりました。

今は、埼玉の本社や群馬県にあったテクニカルセンターも秋田に集約し、秋田の会社として成長し続けています。

『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。 唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。』



これは、ダーウィンの言葉ですが、齋藤社長のお話を聞いて、この言葉がしっくりきました。